2016年06月12日

さつきまつり2

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勝田駅にある日立の工場、敷地内の線路上にED78-1が保存されています。ED78は1967年に試作されたED94を量産化したもので、より大型化したEF71とともに1968年から製造されました。標準化が徹底された直流機と対照的に、交流機は状況に合わせて1955年から12年間で次々と新形式が開発され、ED78は回生ブレーキ付きサイリスタ制御となった完成形です。ただ、交流電化は国鉄だけなのでサイリスタ制御自体は大きく発展しませんでした。一方で回生ブレーキの際に電動機から発生する直流を半導体制御で交流に変えて戻す技術、これは後に交流電動機と組み合わせたインバータ制御になり、あらゆる電車に応用されています。

ED78全機が日立製で福島機関区に所属し、奥羽本線福島・米沢間の長い勾配をED78同士かEF71と重連で走っていたほか、仙山線でも使われていました。1号機は利府駅で保管された後、他の交流機とともに隣接する新幹線運転所の敷地で公開されましたが深刻な老朽化により、去年から日立水戸工場が引き取って保存しています。

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向こうに見える常磐線の勝田駅。水戸工場に引き込まれた線路の撤去が進み、わずかに残った線路は草に埋もれ、交差点と連動する信号機は傾いて止まったまま。この辺りの常磐線各駅には日立の工場があり、それぞれに専用線が分かれていましたが、今は全廃されています。
タグ:廃線 ED78

2016年06月11日

さつきまつり1

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勝田駅の西にある日立の工場。6月最初の土曜日に「さつきまつり」が開催されています。敷地内で保存されているED15-1。1924年に国内メーカーが初めて国鉄向けで製造した電気機関車です。

1925年に東海道本線の東京・国府津間、大船・横須賀間が電化され、これに合わせて1922年からアメリカ、イギリス、スイス、ドイツから様々な電気機関車が輸入されました。ED15はここに割り込んだ唯一の国産機。当時の電気機関車では、車体ではなく大きい台車に連結器を付けて重量や牽引力を負担させ、外観も前後にデッキを付けたものが一般的でした。電車のような箱型車体のED15はかなり前衛的だったかもしれません。

1928年には国鉄が中心となって開発した国産初の大型機EF52が登場しますが、京都の博物館で保存されているEF52-1も日立製ですので、比べればわずか4年で大きく設計思想が変わった事がわかるかと思います。

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なお、「さつきまつり」は工場見学やサービスではなく、あくまで地域交流を目的に敷地を開放しているだけなので、撮影許可が必要なほか、建物内部や催事と関係ない区画へは行けません。
タグ:ED15

2016年06月10日

千波4

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水戸駅の南西には千波湖が広がっています。湖畔に保存されているのは数字の並びがイイ感じのD51-515。1941年に大宮工場で造られた標準的なD51で、1948年から10年間を水戸機関区で過ごしたものです。1961年の電化で電気機関車EF80がやってくるまで、水戸機関区は蒸気機関車の基地で民営化後も駅に転車台が残っていたようですが、今はEF81とDE10が常駐するだけになりました。

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千波湖は白鳥や鴨が間近で見られる憩いの場所。D51も水戸の一部として、大切にされています。
タグ:D51

2016年06月09日

千波3

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水戸駅に着いた水戸線。現在の主力は501系。水戸線は小山駅を出て直流から交流に切り替わるため、常磐線と同じ車両が使われています。水戸線は水戸駅より15km以上手前の友部駅までで、ほとんどの電車は友部止まりになっており、水戸乗り入れは少ないです。それでなぜ水戸線という名称なのかというと、水戸駅は常磐線以前に水戸線の終点だったからです。

小山・水戸間の開業は1889年1月16日、当初の駅は結城、下館、岩瀬、笠間、宍戸、友部、内原、水戸。江戸時代から要衝だった水戸へ少しでも早く線路を通すため、既に開業していた小山駅を経由したようです。常磐線は1895年に友部駅へ接続した後、1897年に北へと延伸し、友部・水戸間は常磐線へ変更されました。

水戸線は東京から水戸へ行くための線路という歴史から、今でも水戸線を名乗っているんですね。
タグ:東日本EC

2016年06月08日

千波2

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常磐線の友部・内原間では、上下線がしばらく離れています。内原側には電車を留置する小さな収容施設がありますが、他は畑やソーラーパネルのみ。いかにも何かの跡地のようですね。そう、ここには廃止された水戸操車場がありました…というのは嘘です。ここには最初から何もありませんでした。

貨物輸送の増加した戦時中、常磐線と水戸線の貨物列車を振り分ける操車場建設が始まり、上下線を離して用地を確保したものの、物資不足でレールを調達出来ずに終戦を迎えました。戦後には東北本線の複線電化が進み、常磐線を迂回する長距離列車は減少。頓挫したまま年月が経過し、このような何もない跡地が出来たわけです。

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下り列車から離れた場所に見える上り線の架線柱。平坦な地形にポッカリ空いた妙な空間は、今日も変わらずに残されています。
タグ:廃線

2016年06月07日

千波1

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小山から水戸線で東へ。笠間駅北西にある市立体育館の横、C58-275が保存されています。1967年の電化まで水戸線ではC58が使われていましたが、保存する事になったのは国鉄から蒸気機関車が消えた翌年1976年。電化から年月を経て水戸線で使われたC58は入手出来なかったため、九州でさよなら運転に使われた275号機が保存されました。偶然の縁で遠い所まで来たんですね。

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笠間は三大稲荷の笠間稲荷と信楽の流れをくむ笠間焼の街。小さな駅舎もどこか風格があります。
タグ: C58